モイセーエフバレエの舞台はエネルギーにあふれている

 ――1996年モイセーエフとの出会いから

バレエ評論家 桜井多佳子

 

 モイセーエフ・バレエ〜イーゴリ・モイセーエフ記念国立アカデミー民族舞踊アンサンブル。この長い名称自体が、まず、同団体の凄さを語っている。

 民族舞踊の素朴な楽しさもバレエの様式美も追求する「アンサンブル」。れっきとした「国立」であり、研究機関的な意味合いも含む「アカデミー」。

 いきなり私事で恐縮だが、2016年、日本舞踊家の夫が、文化庁から文化交流使に任命された。外国で日本舞踊を紹介することがミッション。そんな話を、バレエの大家、薄井憲二先生(故人)にしたところ、「ぜひ、モスクワのモイセーエフ・バレエの芸術監督に連絡しなさい」と言われ、芸術監督の名刺を渡された。電話をかけてみると、「世界の民族舞踊をレパートリーにしているけれど、日本の舞踊にはまだ取り組んだことがないのです。日本舞踊家から『日本の踊り』を学びたいと思っていました。ぜひ、来てください。数ヶ月モスクワに滞在して、『踊り』を創ってください」と提案された。薄井先生は、芸術監督からすでに「日本舞踊家を紹介して欲しい」と頼まれていたそうだ。

 モイセーエフ・バレエは様々な国の踊りをレパートリーにしている。だが、それは、安易な真似事ではない。いまや「日本の踊り」をネットやyoutubeで見つけて、それを作品化することも不可能ではない。その結果、世界中で、なんとも奇妙な「日本の踊り」が存在してしまっている。だが、「アカデミー」の芸術監督は、あくまでも日本舞踊家から学ぶことにこだわっていた。(「数ヶ月滞在」がなかなか難しく、まだ実現はしていないのだが)。

 団体の名称にあるモイセーエフとは、設立者のイーゴリ・モイセーエフ(19062007)。ボリショイ・バレエのダンサー時代に振付家としても成功し、ボリショイ・バレエ団芸術監督にという声もあったようだが、1937年に、ソ連初の民族舞踊アンサンブルを誕生させた。いまではそれぞれ独立国家となったが、当時は、ウクライナもベラルーシもジョージア(グルジア)も、リトアニア、ラトヴィア、エストニアといったバルト三国も、さらにタジキスタン、カザフスタンなど中央アジアもすべてソビエト連邦という一つの国だった。バレエ団創立当初、モイセーエフは舞踊家とともにソ連中を旅し、民俗芸能の資料を集めた。コーカサス地方、ウラル山脈、パミール高原などは、馬や徒歩で旅したという。集めた資料と土着の民俗舞踊をもとに、モイセーエフは舞台芸術としての作品を創りだした。それらの作品を携え、モイセーエフ・バレエはソ連各地で公演した。第二次世界大戦後は外国公演も活発に行っている。日本でも1959~1994年まで何度か公演している。

 モイセーエフ・バレエの本拠は、モスクワ市内のチャイコフスキー・ホール。1996年の秋、そこを訪ねた。音楽の殿堂として知られるこの劇場内に、バーが備わったレッスン場がある。クラシック・バレエ同様、最初はバーに手を添えレッスンが始まった。身体の使い方の基礎は、クラシック・バレエに則っているが、民族舞踊ならではの、床を踏みしめるようなステップや、腰をひねるような動きも入っている。付属の舞踊学校では、民族舞踊、クラシック・バレエ、ジャズダンスのほか体操も学ぶ。民俗舞踊を洗練させたモイセーエフの作品を舞台芸術として観客に提供するには、優れた舞踊家が必要だ。プロの民族舞踊家はこの学校で育てられ、モイセーエフ・バレエに入団後も、トレーニングは続けられる。

 さて、レッスン場では、目前に控えた「モイセーエフの生誕90歳を祝うコンサート」のリハーサルがはじまった。ダンサーたちのレベルは極めて高い。超高速で回転し、驚くべき高さのジャンプも披露する。『ロシアの踊り』での女性たちの可愛らしいこと。アクロバティックで超人的なテクニックでも、決してメカニックにはならず、どこか不思議な懐かしさを感じさせるのは、民族舞踊だからだろう。イタリアの『タランテラ』も文句なしに楽しい。見ている方も笑顔になり、まさに心も躍り出す。が、見守る教師たちの目の鋭いこと。バシッと揃った動きでも、ミリ単位(に思える)の注意が飛ぶ。「アンサンブルを大事にしなさい」という声も聞こえた。なるほど、このバレエ団には、プリンシパルはいない。短い作品の主役を踊るソリストは、他の作品では群舞も踊る。また、群舞のダンサーが、そのままソロパートを踊ることもある。一人一人が発する熱量は凄まじく、その個性を消すことなく、全員のアンサンブルをも重視する。そんなモイセーエフ・バレエの舞台はエネルギーに溢れている。

 リハーサルの中盤、一人の男性が、スタジオに入ってきた。途端に空気が変わった。ダンサーたちも教師たちも恭しく挨拶をする。上品な笑みをたたえた紳士は、イーゴリ・モイセーエフその人だった。

 彼が創った作品を若いダンサーたちが真剣に踊る。その様子を熱心に見て、時折注意を与える。90歳のモイセーエフは、時折立ち上がり、ダンサーに直接指導する。ダンサーは全身でその注意を受け止めていた。

 モイセーエフは101歳で2007年に亡くなった。カリスマ性を持つ指導者を失い、その後モイセーエフ・バレエはどうなっていったのだろう。果たして、その10年後の2017年、バレエ団設立80周年記念公演のプロモーションビデオ、さらに最近の公演映像などを見て安堵した。そのエネルギーも独自性も芸術性も何も失われてはいなかった。ダンサーたちはさらに洗練されているようにも見える。

 

 指導者には、かつて舞台で大活躍をしていた見覚えあるダンサーもいる。イーゴリ・モイセーエフの作品は、確かに受け継がれている。久々の日本公演でそれは確認できるだろう。エネルギーに溢れた舞台を心待ちにしている。



■モイセーエフバレエ学事始■踊りは国境を越える

ロシアの舞台芸術を牽引し、世界中に踊る喜びを伝えるモイセーエフバレエ

舞踊評論家 林愛子

 

 

 かつて来日したヨーロッパのトップ・ダンサーにインタビューした際、子供時代にモイセーエフバレエを見たのがきっかけで“踊りたい、ダンサーになりたい”と思ったと答えた何人かがいた。パリ・オペラ座エトワールからマルセイユ・バレエに移りローラン・プティのミューズとして活躍したドミニク・カルフーニもその1人。彼女は初めて見たモイセーエフバレエの舞台を「とにかく楽しくてワクワクした」と語った。モイセーエフバレエが世界を公演して回るたびに、どれほど多くの人々を感動させてきたことだろうか。ダンサーたちは、純真な子供たちも訳知りの大人たちも、生きる喜びとエネルギーに満ちた民族舞踊の世界へと招き入れる。それだけでなく舞台に魅了された若い観客の心に舞踊家を志向させる熱意の種を蒔いてきた。

 モイセーエフバレエの創設者イーゴリ・モイセーエフは、いうまでもなく20世紀における最も偉大な振付家の1人であり、舞踊という表現芸術の巨人である。彼はその慧眼によって各地(各国)に伝わる民族舞踊の底に流れるエッセンスを見出だし、自ら率いる高度なダンステクニックを有するダンサーたちに踊りの精髄を吹き込んで、それまでとは異なる新しい舞台芸術を創造した。村人や民衆の誰もが祭りや結婚式に集まって楽しむダンスを、鍛え上げた舞踊の身体をもつプロフェッショナルなダンサーたちによる極めて完成度の高い作品へとつくり上げたのである。

 1906年1月21日ウクライナ共和国のキエフに生まれたイーゴリ・アレクサンドロヴィチ・モイセーエフは同じくウクライナのボルタワで育ち、フランスのパリに暮らしたのちモスクワに移った。1919年頃ヴェラ・モソロワにバレエの個人指導を受け始めたというから踊りのスタートは決して早いほうではない。その後1921年に入学したボリショイ・バレエ学校でアレクサンドル・ゴルスキーに師事し徹底したアカデミックなバレエ教育を受けた。24年にはボリショイ・バレエ団に入団、18歳でソリストになり、39年まで在籍しながら一方で演出・振付活動も行いバレエのために「フットボール」という作品等も創作してすでに高い評価を得た。優れた才能ゆえに彼はボリショイ・バレエ団の芸術監督の候補にもなったといわれる。

 世界のボリショイ・バレエからモイセーエフのような民族舞踊をテーマとする作品を数多く生み出した鬼才とも天才ともいえる演出・振付家が出現したことはとても興味深い。チャイコフスキーの曲で知られる古典バレエの名作「白鳥の湖」においてジークフリード王子の誕生日を祝う宮廷の舞踏会シーン(第3幕)ではハンガリーのチャルダッシュ、ポーランドのマズルカ、イタリアのタランテラ、ボレロ風のスペイン舞踊などさまざまな民族舞踊=キャラクター・ダンスが踊られる。悪魔によって白鳥に姿を変えられてしまったオデット姫は、クラシックバレエの技法を用いてトゥシューズで爪先立つことで飛翔をイメージさせ、神秘的な美しさが強調される。一方、キャラクター・ダンスの踊り手たちは踵のある靴を履いて床を踏み鳴らすという人間味ある踊りで白鳥との対比を象徴的に表している。もちろんそこで踊られるキャラクター・ダンスはクラシックのレッスンを重ねてきたダンサーたちによるので洗練されたものであることはいうまでもない。

 キャラクター・ダンスとは、クラシックなどのアカデミックなダンス以外の舞踊のことを指し、伝統的な民衆の踊りやフォークロア(民俗芸能)、職人たちの踊りに由来するものと定義されている(オックスフォードダンス事典)。ちなみにタタールスタン共和国が生んだ天才ルドルフ・ヌレエフは、サンクトペテルブルクのワガノワ・バレエ学校に入学する前の子供時代に民族舞踊を学んでいる。ソ連から亡命した後に彼が改訂振付した古典作品「ドン・キホーテ」でもスペインという豊かな土壌から生まれた民族舞踊を腕のラインやステップまでをきちんと生かした格調高いキャラクター・ダンスに仕上げていた。

 ボリショイ・バレエ学校時代から自身もキャラクター・ダンスが好きだったというモイセーエフは、子供時代にウクライナの大都市キエフから離れた村を訪れた時に、キエフとはまるで異なる伝統のもとで生活する人々が人生の喜びを踊りで表現していた祭りを見たことがずっと忘れられずにいた。ボリショイのダンサーとなってからも時間があるとリュックを背負ってパミール高原やコーカサス、ウラル地方などを徒歩や馬の背に跨って、その地で踊られるステップはもちろん伝わっている音楽や詞までを採集してまわった。

 1936年、モスクワで当時のソ連邦の各共和国の人々が集まって民族舞踊のフェスティバルが開かれ、大きな反響を呼び起こした。これがきっかけとなり、ソ連邦各国の民族舞踊を作品に仕上げるというモイセーエフが抱いていた創作理念が実現することになった。1937年、ソ連邦で初めてのプロフェッショナルな民族舞踊の集団「ソ連国立モイセーエフ民族舞踊団」(現モイセーエフバレエ)が誕生したのである。舞踊団の芸術監督モイセーエフは才能のあるダンサーを集めて鍛え上げ、37年8月29日エルミタージュ劇場において記念すべき公演が行われた。以降、モイセーエフバレエは常に客席を沸かせ、舞踊団はソ連邦の各地を公演して回った。1940年には、舞踊団はモスクワのチャイコフスキー劇場を拠点とすることになった。

 第二次世界大戦が終わると、モイセーエフバレエはいよいよ世界へと活躍の場を拡げていく。1955年にはパリ・デビュー、57年ロンドン、58年ニューヨーク、そして1959年には初めて日本にやって来た。上演されたのは、今のファンにもすでに親しまれている「ロシア組曲」「カルムイク人の踊り」「ユーロチカ」「艦上の一日」「パルチザン」等々。これらはその一部だが、日本の観客は熱狂的に彼らを迎えた。

時は下って1997年、モイセーエフバレエ・アカデミーの生徒たちが初めて来日公演を行うことになり、同年5月にマエストロ・モイセーエフ、アカデミーの生徒たちをモスクワに訪ねた。史上最高齢の振付家といわれたモイセーエフは当時91歳、チャイコフスキー・ホールの内にある執務室の机の前に座る彼は威厳に満ちて、静かで穏やかだがこちらの胸の内を見抜いているような眼光の持ち主だった。「広いロシアにはいろいろな民族が暮らしていて、人々は祭りやら結婚やらことあるごとに自分たちの楽しみとして踊ってきました。山に暮らしていれば山という自然から生まれた踊りがあり、町ならば町の踊りがあってそれぞれの違いがなんともおもしろいのです。踊りを知ることはつまり人間を知ること。クラシックバレエを踊っていると稽古場と劇場の関係者だけのなかに閉じこもりがちになる。私は人間が好きなので、さまざまな人に出会える民族舞踊が好きになったのだと思う」その雰囲気、語り口は文化人類学者のようでもある。過去を振り返るというより未来を見つめているまなざしとたたずまいは、この世に稀有な芸術家イーゴリ・モイセーエフの圧倒的な存在感、生命力の強さを感じさせた。

 毎日、稽古やリハーサルを見て指導しているというモイセーエフに従って稽古風景を見せてもらうためにスタジオに移った。スタジオの指導教師が掛ける声のもと生徒たちはバーでの基礎レッスンを行う。両足を180度開くアン・ドゥオール、膝を曲げて身体を下に落とすプリエから始まりやがてステップの稽古から音楽に合わせて踊る。すでにプロフェッショナルの意識をもっている生徒たちを、マエストロがニコニコと見ていた様子が孫に接する好々爺のようで微笑ましい。

 そのあとモイセーエフバレエ本体の稽古になると、大人のダンサーたちが最初に驚くほど深くて柔軟なプリエを始めた。クラシックバレエのメソッドが脚の可動域を拡げ、身体ラインを柔軟に美しく保つために欠かすことができないことは今や誰もが認めていることだ。彼らはキャラクター・ダンスシューズの爪先と踵を使って床を正確に強く打ち続けるステップの練習をして見せた。その強靭でしなやかな脚、ブレのない体軸、表情豊かな腕。ダンサーとして見事な条件を備えているからこそモイセーエフバレエのメンバーは、超絶技巧の散りばめられた作品の数々を深い表現力とともに難なく踊る。あの、驚愕するほどの高い跳躍、高速の回転、作品ごとに示す見事なハーモニーは、舞台裏で日々のレッスンを重ねることで生まれ、維持されるのだ。

 マエストロのことを“イーゴリ・アレクサンドロヴィチ”と尊敬の念と親しみをこめて呼ぶ生徒たちが、こうした大人のダンサーたちのレッスンを稽古場の外側の窓から顔をガラスにつけ目を輝かせてじっと見つめる姿の可愛らしさは今でも忘れられない。卒業してモイセーエフバレエに入団できる生徒はほんのわずかだが、モイセーエフバレエ団がソ連邦の各地で公演を成功させると、そのあとに続く優れた民族舞踊団もまた生まれており、生徒たちはそういう舞踊団に入って活躍しているという。マエストロ・モイセーエフは強いリーダーシップを発揮してきた指導者であり、舞台芸術を支えていく多くの後進を育成する教育者でもあることがわかる。彼は、かつてタランテラ(毒蜘蛛にかまれた人々が汗で毒が流れ出すまで踊り続けたというイタリアの都市タラントに由来する踊り)の踊り方を忘れたイタリア人にステップを教えたことがある、と笑った。

 いうまでもなく広大なロシアは民族舞踊の宝庫である。その民族舞踊に魅せられて研究を重ね、舞台化したモイセーエフ。世界を見回しても彼ほどそれぞれの民族舞踊がもつ歴史や踊りの心、ステップや音楽を熟知している振付家はいないであろう。その行動力によってレパートリーはさらに増え、ベトナムや中国、イスラエル、南米の国々に伝わる民族舞踊も舞台化されている。

 モイセーエフによると、彼の作品づくりの道は二つあるという。まず第一番目はその地その民衆に伝わる民族舞踊をもとにして再構成と再振付を行うことで舞台に上げること。第二番目は民衆の生活のなかにある歌や遊び、詞などからまだ舞踊のかたちをなしていないものを発見し、それをかたちにして新しい作品にすること。それは人々の暮らし、人生を舞踊化したいという彼の強い願いの表れでもある。

従って彼の作品はおおよそ二つに大別されるといえる。第一番目はスラブやウクライナ、カフカスなどで長く民衆の間で踊られてきたものをその衣裳や音楽、振付を生かして舞台化したもので、たとえばロシアの代表的な踊り「ポリャンカ」などはこれにあたる。第二番目は、水兵の生活を舞踊で描いた「艦上の一日」やナチの侵攻に対するカフカスの人々の戦いを描いた「パルチザン」などがある。

 モイセーエフバレエの舞台でまず感心するのはロシア以外の国の踊りでも、ダンサーたち皆があたかも自分の出身地のものであるかのように踊ること。すなわち多様な民族の踊りを、国境を乗り越えて表現しているということだ。あくまでも格調高く、男性ダンサーが並外れたテクニックを見せても誇示することなく、女性が可愛らしさを示しても媚びることがない。だから作品ごとにリードするダンサーはいても、クラシックのバレエカンパニーのようにスターを必要としない。  こういうところにもモイセーエフの精神が生きている。

 世界に冠たる民族舞踊団を創設して以来、民族舞踊のみならず舞台芸術を開拓し牽引してきたイーゴリ・モイセーエフは2007年11月2日モスクワで死去。彼が振り付けた作品は200を超えるという。舞台にはそこに流れる時間というものがあり、同じ時間なのにどうにも退屈で長く感じられる舞台もある。だが、モイセーエフの舞台は、間違いなく時間を忘れさせるのである。

 モイセーエフバレエは創設者を失って十数年たった今でも、求められて世界中で踊っている。今、ダイバーシティ(多様性)が標語のように叫ばれているが、ずっと以前からモイセーエフと彼のダンサーたちは民族舞踊によってこれを体現していた。今秋にはまた来日して、あの“楽しくてワクワクする”時間をもたらしてくれるはずだ。